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2006年6月3日(土) 14時30分 ユリイカ 2006年6月号、MOTHER3に関するコラムを掲載
5月に出版された雑誌「ユリイカ 2006年6月号」に掲載されている
MOTHER3に関するコラム「夢のなかから革命は始まる 任天堂・『MOTHER』・マルチチュード / 小澤英実」
の詳細が分かりましたのでお知らせします。
このコラムはMOTHER3を含めた任天堂ゲームから任天堂全体について掘り下げていく濃い内容になっており、
純粋にMOTHER3だけにスポットを当てたコラムではありませんが、
MOTHER3と従来のMOTHER1+2との違いを掘り下げた「『1+2』≠『3』」を中心に、
MOTHER3の異質さを掘り下げる興味深い内容になっています。
夢のなかから革命は始まる 任天堂・『MOTHER』・マルチチュード / 小澤英実(一部抜粋)
著作権法上、全文の掲載は控えています。
出版社・執筆者 小澤英実氏から修正・削除などの改善指導があった場合には、速やかにそれに従います。
『1+2』≠『3』
・(『MOTHER3』が)コンテンツ自体において特筆すべきは、
前作までの都市から都市への移動によって進むストーリー展開を放棄した点である。
・(糸井さんがゲーム作りを箱庭療法に喩えていたことを付記した上で)
『1』から十七年後の『3』の舞台は、一転して、箱庭のような閉じた世界になっている。
これに関して糸井は『2』の制作中に「街から街へ、すごろくみたいに回っていく」
っていうことが気になり始め、「旅行に行くまえに部屋を散らかしていったら、
旅行から帰ってきたときに部屋は散らかったままなんだ」という着想から生まれたと述べている(参照)。
・当初のコンセプトにおいて『3』は、ひとつの街を舞台に
物語とユーザーの時間を投入し蓄積していく『どうぶつの森』のようなゲーム性を志向していた。
・空間的スケールの拡大ではなく、限定された空間のなかに流し込まれる濃密な時間。
「ノーウェア島」と呼ばれる世界はひっそりと静かに閉じ、
その町の名前は「サンクスギヴィング(原文ママ)」や「ハロウィーン」ではなく、
「タツマイリ村」や「タネヒネリ島」など、どこか日本を想起させるものとなっている。
・総じて『MOTHER3』が提示する世界観は、スピルバーグの映画的な友愛から、
村上春樹を想起させる文学的な孤独に変貌している。
「キャラ」とマルチチュードのストラテジー
・『1+2』と『3』の間に横たわる溝を考える手がかりは、
「ほぼ日」サイトにつけられたコピー「Only is not lonyly」にあるように思える。
・糸井が述べる、ネットワークを介して孤独なまま繋がり合う人間主体の在り方は、
一にして多、多にして一であるマルチチュード(多種多様な群れ)と響きあう。
・文化人のコンテンツ発信としてはパイオニアといえる時期から
いち早くウェブサイトを運営してきた糸井の言葉はまさしく、
現在任天堂が打ち出している方向性―Wi-Fi通信をはじめとしたネットワーク接続による
「おとなもこどもも、おねーさんも」繋がり合えるコミュニケーション・プラットフォームの確立
―に寄り添い、ニンテンドーDSの「画面という穴」をのぞき見たときに現れる世界をまた、
夢見ているように思える。
・糸井が作り出すゲームの世界において、マルチチュード的群知性の象徴としてプレイヤーが交流するのは、
どせいさん(<イノセント>の象徴だと糸井は述べる)や、マジプシーたちという「キャラ」。
・任天堂のキャラクター戦略は、ゲームのキャラクターだけではない。
宮本茂本人や神とされるスーパークリエイター、高橋名人や毛利名人といった
カリスマプレイヤーたちなど実在の人物達が「キャラ」となって動く世界。
それがソフトとしての任天堂が打ち出す企業イメージ。
・マリオやルイージのみならず、『MOTHER』のどせいさんやマジプシー、そしてポケモンたちに至るまで、
こうしたキャラたちはゲーム制作の裏舞台にあるリアルな身体、苛酷な環境の中体力を
極限まで消耗させている作り手たちの肉体の痕跡を残しているように思える。
MOTHERをポケットに入れて。
・そして『MOTHER』という普通のゲーム制作では類のない
入念な制作プロセスを踏んだゲームの中に息づくのもまた、プログラミングや
合宿形式のシナリオ作りといったフィジカルな作業の痕跡を留めた「キャラ=メッセージ」。
・『MOTHER3』の発売を記念してインターネット上で行われたトークライブの中で糸井は、
「最近のテレビにはCGのような、モデルのような体型をした人ばかりが出ていてつまらない」
と述べていたが、ハードの高性能化に足並みを揃え、
2000年に『MOTHER3』が挫折した夢を実現していったとも言える『ファイナルファンタジー』シリーズは、
CGを駆使した「キャラクター」と壮大なスケールとを携えて映画的表象に突き進み、
現実界の砂漠に辿り着いたかのような虚無感を増大させている。
・対して『MOTHER』シリーズとそれが共鳴する任天堂のスピリットはいま、
ミニマムなテロリストめいた戦略によって、
アナログかつ物質的な手触りの演劇的世界へと向かおうとしている。
青土社
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記事執筆者 管理者 アポロ船長
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